アイガー・サンクション
『アイガー・サンクション』トレヴェニアン(河出文庫)

すぐれた登山家にして大学教授、美術鑑定家、ジョナサン・ヘムロックは、パートタイムの殺し屋でもある。CIIのサンクション(報復暗殺)要員として莫大な報酬を得ている――サンクションの舞台はアイガー北壁、チームを組んだ登山隊のメンバーのなかに、対決しなければならない未知の目標がいる……。ソフィスティケートされた異色のスパイ・スリラーとして絶賛を浴びた大ベストセラー。(本書あらすじより)

トレヴェニアンといえば一作ごとに大きく作風を変えることで有名ですが、そのデビュー作となったのがこちらの『アイガー・サンクション』です。あらすじを見た瞬間鼻血が出そうなほど要素テンコ盛りの主人公が活躍するスパイ・冒険小説。何しろジョナサン・ヘムロックは若き大学教授(美学)であり、世界的に名の知れた登山家であり、さらにアメリカ情報機関の殺し屋でもあるんですよ、そして荒れ果てた教会を改装して自宅にして、その地下に闇で買い集めた絵画を並べまくり、その資金を得るために人を殺すんですよ、そんな彼がかつて友人を裏切って殺した宿敵も相手にしつつ、登山隊のメンバーの中に潜む敵を探りながらアイガー北壁に挑戦するんですよ。あらすじどうなってんだ。
というわけなので、エンタメとしては文句なしの出来なのは確か。そりゃあ面白いに決まってます。正直あのド傑作『夢果つる街』を書いた人と同じだとはとうてい思えないんですけど……。

盛りだくさん過ぎる主人公のキャラ設定に加えて、盛りだくさんすぎる相棒やらライバルやらのキャラ設定、またかというくらい登場する美女とのセックスシーン、どことなく作り物めいた組織とスパイっぽいやり取り(「ドラゴン」と呼ばれる色素欠乏症で常に暗闇の中にいる人物がボスなんだぜ)。これってもしかして、スパイ小説のパロディなのか、とすら思います。なんかもう意図的にやりすぎというか。

とはいえ(ある意味)バカっぽい設定だけの話ではありません。アイガーに挑む登山隊の中から殺しのターゲットを探さなければならないというミッションはまさにフーダニットなのですが、正直かなり意表を突かれました。このキレキレっぷりは褒めまくらざるを得ません。
あらすじ上はメインっぽいアイガー登頂シーンは、実は50ページほどしかありません。そこまでは別のスパイを相手にしたり、セックスしたり、久々の登山に備え修行をしたり(現役の登山家を引退して結構経つので、過去二度失敗しているアイガーに立ち向かうには相当な修行が必要なのであります)、セックスしたりで、いや早く山登れよ、みたいなところはありますが、逆にそのせいで緊張感を保ったままラストになだれ込めるのでこれはこれであり。登るまでの350ページも話が盛り沢山なので全然飽きないですしね。とはいえちょっと登山シーンの内容はあっさり気味かなとは思うので、冒険小説っぽいものは期待しない方がいいでしょう。

総じて傑作!みたいな感じではありませんが、エンタメとして一級品であることは間違いないでしょう。あらすじにピンと来た人はぜひ。続編の『ルー・サンクション』もいずれ読みます。


ところで、作中でこういうシーンがありました。
画像アイガー・サンクション
これ、要するに二視点を分けて書いているんですよ。翻訳小説でこういうことをしているのは珍しいなぁと。
ちなみに昔の河出文庫なので20行です。字が小さい……。

原 題:The Eiger Sanction(1972)
書 名:アイガー・サンクション
著 者:トレヴェニアン Trevanian
訳 者:上田克之
出版社:河出書房新社
     河出文庫 951A
出版年:1985.07.04 初版

評価★★★★☆
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パールストリートのクレイジー女たち
『パールストリートのクレイジー女たち』トレヴェニアン(ホーム社)

1936年、六歳のぼくは、母と妹のアン・マリーと、オールバニーのパールストリートに越してきた。長く不在だった父と暮らすために。しかし約束の日、父は現れなかった。そしてその日から、見知らぬスラム、パールストリートでの三人の生活がはじまる。六歳にして、病弱でエキセントリックな母の片腕となった「ぼく」の目を通して、スラムの人々の暮らしや、当時のラジオ、音楽、遊びなどのアメリカ文化、また市民が体験した第二次世界大戦を色濃く言葉に映した、ベストセラー作家の最後の長編小説。(本書あらすじより)

あのトレヴェニアンの最後の長編を、あの江國香織が訳したというので話題になった作品です。版元はホーム社……し、知らない……(ごめんなさい)。2005年にトレヴェニアンは亡くなってしまったのですが、その亡くなる数か月前に出版されたようです。
まず言っておくと、全くミステリ要素はありません。自伝的小説で、大戦間のアメリカ貧民街の生活が市民の目線から描かれます。風俗小説として、そして妄想力豊かな少年の成長譚としてじっくり面白い……のですが、9割暮らしを描いているだけなので、それだけと言ってしまえばそれだけ。嫌いじゃないんですけど、ストーリー性がもう少し欲しかったかもしれません。

主人公のジャン・リュックは6歳の時、父親が出て行った家族の中で、強烈な個性を持つ母親と、弱気な妹と共に、パールストリートでの暮らしを始めます。クレイジーな女に満ち満ちているパールストリートで、彼は彼女たちと関わりながら貧しい暮らしを送っていくことになります。
父親不在の中、一家を支えようと思う一方で、こんなところから抜け出して自由な世界に出て行きたいと思うジャン・リュックの葛藤が非常に胸に迫ります。……という主人公の成長譚としての側面もあるにはありますが、このへんが強調されるのはほぼ終盤で、基本は街の暮らしと住人の様子を描くことがメインでしょうね。

ラジオが導入されて家庭はどうなったか、動かない夫と共に引きこもり過去の世界に生きるクレイジーな女との出会い、初恋とも言える体験、などなど、各章で少年時代のジャン・リュックとパールストリートが登場します。いやもう個々の章を抜き出すととっても面白いんですが、長編というより中編の集合体っぽい構成ということもあり(章のつながりがあんまりないのです)、ちょっと長いというか冗長に感じました。
で、基本的に章ごとがほぼ独立しているのに、終盤になって唐突に主人公たちの新たな旅立ちが出てくるなどいきなりストーリー性が増してくるんですよ。おまけにその結末もかなりつらいもの。なんといっても主人公の母親がもう本当にめんどくさくて嫌な人で、後半に入ると特にきつくて色々としんどいのでなおさらラストがつらいことに。バッドエンドというより、貧しい一家の行きつく先とは?くらいのものなので読めることは読めますが、いきなりこういう話になっちゃうの、みたいな違和感があります。

とはいえこれはほぼ自伝小説なので、たぶんこういうのも実話なんだろうし、文句を言ってもしょうがないかなとも思うんです。じっくりじっくり、アメリカ貧民街を読んでいくのがこの小説のメインなので、いろいろストーリー性にケチをつけるのが野暮ったいのも事実。『夢果つる街』に登場するザ・メインのような街が好きな方とか、ディケンズが好きな方なんかはつまらないということは決してないと思いますので、ぜひ読んでみてはどうでしょうか。

書 名:パールストリートのクレイジー女たち(2005)
著 者:トレヴェニアン
訳 者:江國香織
出版社:ホーム社
出版年:2015.04.08 1刷

評価★★★☆☆
夢果つる街
『夢果つる街』トレヴェニアン(角川文庫)

吹き溜まりの街、ザ・メイン。いろんな人間たちが破れた夢を抱えて生きている。ラポワント警部補は毎日パトロールを欠かさない。ここは彼の街であり、彼が街の“法律”なのだ。そしてラポワントにも潰えた夢があった……。それは奇妙な死体だった。胸を一突きされて、祈るような格好で路地にうずくまっていた。イタリア系らしい若い男だった。街を知りつくしたラポワントは、難なく最初の手がかりをつかんだ。だがやがて浮かびあがるのはまったく意外な犯人、そしてそこにも街の悲しい過去があるのだった――。(本書あらすじより)

角川文庫ミステリチャレンジ第五弾です。吹き溜まりの街、ザ・メインで起こった殺人事件を、街の警察官ラポワントが淡々と捜査する物語。ひたすら街と人々が描かれるだけなのに、この切ない、胸を打つ感動は何なんでしょう……つまり、あれです、これは傑作です。素晴らしい。

ラポワントは街を知り尽くしていて、捜査の途中会う人会う人に声をかけていきます。そのたびに、彼ら彼女らの過去のエピソードがぽつりぽつりと語られていくのです。これがいちいち切ないんですよね。どん底の人たちが暮らすザ・メインという街がこうしてじっくりと描き出されていくのです。

そしてその街を知り尽くしたラポワントに、殺人事件捜査のため、勉強を兼ねて新米の刑事ガットマンがつくことになります。最初は、古臭い考えで捜査をする刑事と若くて大学出の刑事がコンビを組んで対立するパターンねはいはいよくあるよくあると思っていたんですが、この組み合わせが本当に良いんですよ。どちらも自分の信念というものがあり、かつ少しだけ影響されあっていきます。そのつかず離れずの関係が微妙に揺れ動いていく様の描写がもう抜群に上手いというか。若い刑事に説明していく形で街と人を示していくというやり方もベタながらスムーズ。最後の方の二人の関係とかね、なんかもう泣けちゃいます。

真相は私立探偵物のように手がかりを順繰りにたどっていくと出て来るもので、この真相がちょっと浮いている気がしなくもないんですが、それでもこの寂しさを募らせる叙情性がたまりません。特に真相発覚後の孤独感の強烈さ。くぅぅぅこれはキます。この雰囲気を出すための500ページなんです。
あと1000ページでも読んでいられると思わせる独特な空気感に見事にやられてしまいました。これは傑作でしょう。やっぱり、ラポワントだけではなく、街が主人公の小説だったんだなと。

ところで、東西ミステリーベスト100にランクインしているトレヴェニアンの作品は、これではなく『シブミ』なんですよね。一冊ごとに作風が大きく異なる作家さんのようなので、こちらも楽しみです。

書 名:夢果つる街(1976)
著 者:トレヴェニアン
出版社:角川書店
    角川文庫 ト-5-2
出版年:1988.04.25 初版
    1998.09.05 9版

評価★★★★★